「うつる」でも「映る」でもなく「写る」

「うつる」でも「映る」でもなく「写る」
星野廉
2022年8月13日 07:44


目次

ガラスになぞる
写、射、斜、車、シャ、射る、入る
Sにとって極端な場合には相手は物(比喩)でもいい
なぞる、なする、さする、なでる
文章を読んで覚えるむずむず感


ガラスになぞる


 透明ではなく透明感のある文体として、川端康成作『雪国』の冒頭近くの文章を挙げてみます。特に取り上げたい例は、主人公の島村が、曇った汽車の窓ガラスに指で線を引く場面なのです(……)


――汽車の中で主人公の島村が左手の人差し指をいろいろ動かしたり、その指にまつわる記憶にふけったり、指を鼻につけてその匂いを嗅いでみるという、かなりエロティックな描写(猥褻な感じさえする)の後に、向かい側の座席の女(娘)が窓ガラス(手で押し上げて開ける窓)に映る。窓ガラスが鏡になるのだ。その窓ガラスの向こうに夕闇の中の景色が流れていく。窓という鏡に映った娘。窓の向こうに流れる風景。娘の顔に、野山のともし火がともる。映画の二重写しのように。


 ガラスが透明であることとガラスが鏡でもあることをこれほどまでに、美しく象徴的に描いた文章はほかにない気がします。エロチックで濃密な筆致の直後に、こうした透明感のある描写を持ってくるところが、川端の凄さです。(……)


 川端の『雪国』におけるあの場面の描写――。淀んだ性愛行為と、ガラスと光によって織りなされる透明感のある美という、かけ離れたものをわざと隣り合わせにするのだから、これはまさに錯覚を利用した魔術的な文章の手法であると言えます。両者が別々に書かれていたら、その描写の効果は半減したにちがいありません。対比の妙。対比の効果。


(拙文「透明な言葉、透明な文章」より)


写、射、斜、車、シャ、射る、入る


 上で触れた川端康成の『雪国』における描写ですが、文字と音声とイメージの韻を感じます。


 写、射、斜、車、シャッター、カシャッ、射る、入る――こういう感じがするのです。


 もちろん個人的な印象にすぎないのですけど、説明させてください。


 以下は、新潮文庫版『雪国』の、8ページの6行目から12ページの7行目を対象にしたメモです。



・人差し指8-6、指8-7・8-9・8-11

・その指で窓ガラスに線を引くと8-11

・向側の座席の女が写ったのだった8-13

・汽車のなかは明かりがついている。8-14

・それで窓ガラスが鏡になる。8-14

・指で拭くまでその鏡はなかった8-15-16

・掌てのひらでガラスをこすった。9-2

・男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった。9-6

・娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので9-8

・なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて9-9

・夢のからくりを見ているような思いだった10-5-6

・鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。10-7-8

・窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので10-16-11-1

・反射がなかった。11-4

・この鏡の映像は窓の外のともし火は窓の外のともし火を消す強さはなかった。11-7-8

・ともし火も映像を消しはしなかった。11-8

・窓ガラスに写る自分の姿は見えず11-14-15

・島村が葉子を長い間盗見しながら11-16

・夕景色の鏡の非現実な力11-16-12-1

・もう鏡はただ闇であった。12-4

・鏡の魅力も失われてしまった。12-5

・葉子の美しい顔はやはり写っていたけれども12-5

・鏡の曇って来るのを拭おうともしなかった。12-7


(太文字は引用者)


 以上の引用箇所を見ると分かりますが、汽車の窓が鏡とほぼ同一視されています。この作品では、窓にうつるは「映る」ではなく「写る」と表記されています。私が興味を惹かれるのは、「シャ」とも読める「写」が使われていることに尽きます。


 ただし、作者の意図とか美意識とか、あるいは校正をふくむ編集上の事情を問題にしているのではありません。



『雪国』(1935年~47年に雑誌に分掲)と『山の音』(1954年刊行)と『みづうみ(みずうみ)』(1954年に掲載)だけを比べてみます。


 電車の窓にふと赤い花がうつって、曼珠沙華まんじゅしゃげだった。

(新潮文庫『山の音』p.295より引用・太文字は引用者)

 女の姿は窓ガラスにうつっていた。

(新潮文庫『みずうみ』p.23より引用・太文字は引用者)

 みずうみを見ながら歩いていると、水にうつる二人の姿は永遠に離れないでどこまでも行くように思われた。

(新潮文庫『みずうみ』p.25より引用・太文字は引用者)

 以上はとても印象的なシーンでたまたま覚えていたので、探して見つけたのですが、ひらがなで表記されています。その意味は分かりません。作者の意図や美意識など、どうでもいいのです。作品は「読まれるために」ただ「ある」だけですから。


(作者の意図とか思想といった目の前にない抽象ではなく、目の前にある言葉に視線を注ぐ――。私事になりますが、これが大学生時代に蓮實重彦先生の授業と講義で学んだもっとも大切な、読むときの心得なのですが、蓮實先生の映画の見方にも通じる姿勢のようです。)


 一つ言うなら「うつる・うつす」には「写る・写す」にあるような、サディスティックな「さす」感がない気がします。やさしいのです。



 繰りかえします。


 写、射、斜、車、シャッター、カシャッ、射る、入る――こういう感じがするのです。


 さきほど、こう書きましたが、この車窓の場面を読むたびに、私は映画のカメラの舐めるような連続した眼差しではなく――これはむしろ谷崎潤一郎の眼差しではないでしょうか――、写真機のシャッターをカシャッカシャッとつぎつぎと押しながら写した、差しこむような視線を感じます。


 指す、差す、刺す、射す、挿すのです。何度も何度も。そして射る、入るのです。つまり、サディスティックなのです。


 川端の作品における「指」の役割と象徴性はきわめて大切です。指はなぞり、さすものなのです。何かの代用であることは明らかでしょう。



 めちゃくちゃこじつけて申し訳ありません。言葉とのこうした多様な解と快と懐と、ときには壊にも触れることが、楽しみなのです。


 解く(「とく」ではなく「ほどく」と読んでください)ときの快(いやらしくてごめんなさい)、懐かしい快(記憶と連想にひたります)、壊し壊れる快(とちくるっていますね)という感じ……。お察しのとおり、こういうことに(どういうことでしょう)嗜癖し依存しているようです。



 大切なことなので繰りかえします。


 この場面での「島村の」視線は、ただ見るのでもなく、ながめているのでもなく、「さす、指す、差す、刺す、射す、挿す」のです。しゃしゃしゃと、音を立てて。s や sh の音です。要するに、Sが際立つのです。


 さらに言うなら、人差し指(親指でも小指でもありませんよ)で、「さし」、なぞり、なでるのです。しかも容赦なく一方的に有無を言わせず。


 そうです、とっても暴力的で(視線はその本質が暴力なのです、知らずに見られる暴力もあります)、いやらしいのです。


 この場面では、斜めから「長い間盗見」されていることに注目しましょう。見ることは一方的な暴力なのですが、盗見(しかも斜めから)は隠れた暴力になります。密かに「おかす・侵す・犯す」とも言えるでしょう。



 川端の作品においては、この「さす」サディズムが、窓ガラスや水面や鏡に向かうことは救いであり、たぶん川端の企み(技巧)なのでしょう。意図ではなく。無意識に巧むということは作家ではよくあることです。それが才能だとも言えます(きわめて抽象的な言い方ではありますが)。


 むしろ、作品的の構造からして、なるべくしてそうなっているのです(その意味で、ポルノでもホラーでもないのです)。レトリックだとも言えるでしょう。


 さもなければ、以下に書くような危うい事態になりかねないからです。


Sにとって極端な場合には相手は物(比喩)でもいい


 危うい事態とは、Sにとって極端な場合には相手は物(比喩)でもいいということなのですが、これだけではぴんと来ませんよね。長くなりますが、拙文からさらに引用させてください。



*Mの世界:


 基本は、教育と演技(演劇・振りをすること)と遊戯。要するに、プレイ。


 Mはどんな人?:


 教育者(自分が気持ち良くなるためのストーリーと方法を相手に教える教師)。しつこい、根気強い。かまってちゃん。自己中だけど、快感を得るためなら少々のことは我慢する。言っていることと望むことがしばしば真逆(たとえば、「駄目」は「OK」、「やめて」は「続けて」、「死にそう」は「めっちゃ気持ちいい」)。主導権は自分が握る。要するに、めんどくさい。最も重要なポイントは、Mはじつは「ご主人」であること。


 Mの相手には、どんな人物が適するのか?:


 従順。元気で健康体であることが望まれる。Mのお願いや注文(実は命令と指示)に根気よく従う良き生徒。要するに、Mの奴隷。必然的にMの協力者や「共犯者」に仕立てあげられてしまう。なお、Mの相手をMがするという状況は珍しくない。


 Mの相手に最も向かないのは?:


 S。


        *


*Sの世界:


 基本は暴力。しかも一方向(一方的)。要するに、攻撃。


 Sはどんな人?:


 自己中で相手に有無を言わせない。忍耐強くない。快感を得るためのストーリーはなく、計画性は希薄で衝動的。ある意味、単純。主導権という観念すらない。とは言え、もちろん、知性や知力とは必ずしも関係があるわけではない。


 Sの相手には、どんな人物が適するのか?:


 従順。元気で健康である必要はない。相手が人間であることは言うまでもないが、極端な場合には相手は物(比喩)でもいい(たとえば、相手は比喩的な意味での切断された四肢であったり、比喩的な意味での死体であったりしてもいい)。なお、被害者や犠牲者になる可能性が高い。したがって、Sの行為は犯罪との親和性が高いと言えよう。


 Sの相手に最も向かないのは?:


 M。


        *


 以上の説明から、「SとM」とか「SM」と一般に呼ばれている言葉やそれにまつわるイメージや思い込みの粗雑さがお分かりになったと思います。なお、以上の図式が図式である以上粗雑で杜撰なイメージと思い込みであることは言うまでもありません。正しい視点などでは毛頭ないという意味です。そもそもメタな視座などあり得ないのです。



 ところで、みなさんもお感じになるでしょうが、谷崎潤一郎はMですね。健康かつ元気でかまってちゃんな女性に振り回されるのを喜んでいます。たとえば『痴人の愛』や『鍵』や『瘋癲老人日記』を読むとよく分かります。


 一方、川端康成はSだという気がします。かなり自己中で強引で有無を言わせないところがありますよね(『みずうみ(みづうみ)』ではストーカーまでします)。しかも、『禽獣』のように相手が「か弱すぎ」たり(相手が人間とは限りません)、『片腕』のように相手は切断された腕と手であって、いわば物ですが、これは幻想であり暗喩または換喩と解すべきでしょう、あるいは『眠れる美女』のように眠っている(ある意味死体や物と同じです)場合もあるのですから、怖い、怖すぎます。


 江戸川乱歩はたぶんかなり偏ったMでしょう。Mというだけでは済まされないという意味です。乱歩は変化球をばんばん投げましたよね。奇想とも言います。これでもかこれでもかという具合に。あれはすごいです。Mというより、M寄りのH(辞書に載っているHという意味です)というべきかもしれません。


 私がすごいと思って何度も読み返したのは、短編では『人間椅子』と『鏡地獄』と『芋虫』、長編では何と言っても『孤島の鬼』(とりわけ秀ちゃんと吉ちゃんが出てくる部分の妖しさと悲しさ)です。


 乱歩の作品は、谷崎と同様にその主要なものが青空文庫に入っているので、まずはネットで目を通してから本を読むのもいいかもしれません。「いやだ、こんなの無理みたい」とお感じになれば、バイバイということです。



 なお、谷崎も川端も乱歩も、MだのSだのHだのも、その作品の傾向がですよ。ご本人については知りませんので、誤解なきようにお願いいたします。作品だけを前にして、その作品を書いた人について語れるわけがありません。騙るなら別ですけど。


 つまり、「谷崎潤一郎」も「川端康成」も「江戸川乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです。それでしかありえないのです。あなたも私もそうだと言えます。noteという場にいる限りにおいては、生身の人間ではないわけです。私はあなたに触れることはできません。でも、あなたの言葉になら「触れる」ことができます。それ以上でもそれ以下でもありません。


 それ以上とそれ以下にかかわるのが、「読む」であり批評であり文学研究なのです。この文章もそうです。「言葉」と「記号」と出会うのは稀な出来事であって、それはもはや事件というべきなのでしょう。言葉はそこにあるのになかなか読めないし、出会えません(つい書かれていないものを読んでしまうのです、この文章も例外ではありません)。


 そうなのです。ここでは、あなたも私も言葉ですね。嘘じゃありません。こ・と・ば。いま、私たちはめちゃくちゃリアルな話をしています。


(拙文「【小話】「谷崎」も「川端」も「乱歩」も、「言葉」であり「記号」なのです」より)


【※以上の怪しげなSとMをめぐる図式は、ジル・ドゥルーズ著『マゾッホとサド』蓮實重彦訳を参考に私が勝手に作ったものです。】


なぞる、なする、さする、なでる


「うつる・うつす」や「なぞる」は言葉です。音声であり文字でもあります。同時に、仕草や身振りでもあります。表情で表すこともできるかもしれません。


 音声、文字、表情、身振りは、音や視覚的な像として確認できます。外にあるからです。外にある形でしか確認できないのです。


 一方で、それらが喚起する、つまり呼びさますイメージや意味は、各人の中にあり、確認できません。言葉として説明すれば、他人に通じるかもしれませんし、通じないかもしれません。


「写す・映す・移す」を身振りで示してみるとどうなるでしょう? その動作は人それぞれかもしれないし、共通点があるかもしれません。手話であれば、共通点があるはずです。手話は日本語と同じく言語だからです。


 ただし、日本で使われている手話と、たとえば米国の手話とでは「写す・映す・移す」が異なる可能性は高い気がします。残念ながら私は知りません。



「写す」(トレースするとか文字を書写する場合です)と「なぞる」は動作として演じてみると――手話の話ではありません――、近い気がします。


「なぞる」を複数の辞書で調べると、「なする・などる・なすって書く・たどってかく・そっくりまねる・かきうつす」という言葉が出てきます。


「なぞる」を動作や仕草でなぞる。「なぞる」を、他の言葉で置き換えて、つまり移り変わらせてみる。


 つまり、すこしずつずれていくわけです。ずれがあるのですから、「同じ」とか「同一」とは言えないでしょう。むしろ、「似ている」とか「そっくり」を追求していく作業に見えます。


「似ている」を基準とするのですから、要するに印象なのです。



 ここでの「似ている」は視覚的なものです。見た印象が「似ている」という話です。


 もう一つの「似ている」があるような気がします。


 うつす、なぞる、なする、さする、こする、ぬる、なでる。


 なんだかいやらしくなってきましたが、それなんです。


文章を読んで覚えるむずむず感


 音としての言葉と、文字としての言葉に加えて、ぞくっとくるものを感じませんか? 皮膚に来るような感じとか、触覚的なイメージと言いましょうか、頭ではなく身体にくるような、からだに訴えてくるような感覚のことです。


 文章を読んで覚えるむずむず感については、ロラン・バルトが、Le Plaisir du texte(1973)で似たようなことを書いていた記憶があります。



 言葉を見たり、読んだり、聞いたりしていて起こる、うつす、なぞる、なする、さする、こする、ぬる、なでる。


 言葉では、こうした感覚がとても大切であり、誰もが日常生活で感じているはずであるのに、ないがしろにされている気がしてなりません(文学作品の鑑賞でも、この感覚が重要な役割を果たすのに、です)。


 ないがしろにされているとすれば、なぜなのでしょう? たぶん、恥ずかしいからではないでしょうか。人には隠しておきたい感覚があるような気がします。あまり口で言ったり、文字で書いたりするものではないのでしょう。


 それは外では確認できない「何か」なのです。各人の中にあって、他人に通じないかもしれない「何か」なのです。きわめて個人的なもの、あなただけのものなのです。


 荒唐無稽であったり、いやらしかったり、ときには背徳的で残酷であったりする。あえて、ひとさまに披露するべきものではない。それが「個人的なもの」ではないでしょうか。


 それはきっと寝入るときや、トイレでぼーっとしているときに、あなたのところにやって来ます。そして、おそらく死ぬ間際にもやってきて、たったひとりでいて、たったひとりで逝くあなたをなぐさめてくれるかもしれません。



 うつす、なぞる、なする、さする、こする、ぬる、なでる――。持論なのですが、こうした身振りや仕草がからだに訴えてくるのは、口(舌、唇、口蓋、歯、歯茎、声帯)と指(指の先、指の腹、指の関節、指紋、爪、汗腺、痛点、皺、襞、てのひら)が深くかかわっている気がします。


 話し言葉は口の動きと表情から発せられる波(振動)であり、書き言葉は手と指をもちいて書き、掻き、描くものであり、いまでは入力し、指でスライドしたりスクロールして読み書きするものであることを思いだしましょう。


 もちろん、受け手である、濡れた眼(瞳、虹彩、睫、目蓋)、そして小刻みに震える耳(耳たぶ、産毛、中耳、内耳、鼓膜、耳小骨、耳管、蝸牛)を忘れることはできません。いやらしく見えたり聞こえたら、ごめんなさい。でも、そういうことなのです。


 いずれにせよ、言葉を入れたり出したりする部分が、ひときわ繊細で精巧にできていることに驚かないではいられません。私がとくに感心するのは手と指です。手が意思表示や治癒に用いられることもあるのに注目してのことです。手というものが不思議でなりません。


 いちばん気がかりなのは、耳や口や目と違って、手と指が自分の目で見えることです。自分から出てきて自分の目で見える文字(音声や表情や身振りは見えません)と似ています。



 話をもどします。


 荒唐無稽であったり、いやらしかったり、ときには背徳的で残酷であったりする「個人的なもの」は、言葉の語義や意味ではありませんから、もちろん、辞書に書いてはありません。公認されていないという意味です。でも、言葉にとって大切な要素なのです。ひょっとすると語義よりも大きな影響力を持って人に働きかけると考えられます。


 ニュアンスとか、語感とか、語のイメージと名づけたところで、手なずけられるものではありません。解消もされません。あえて、わざわざ、ひとさまにお見せしたり聞かせたりするものではないからです。


 こっそりとひとりだけでにやにやしたり、にたにたしたりするたぐいのことなのかもしれませんね。そのことに敏感だったのが、川端康成であり、谷崎潤一郎であり、江戸川乱歩であった。そんな気がしてなりません。


 私は三人とも大好きです。私にとっては目の前にある「読むべき言葉」でしかありませんが。というか、その点がこの記事で私がいちばん強調したかったことなのです。


 もし私が、川端、谷崎、乱歩、ご本人を目の前にしたとして、むずむず感を覚えたり、「萌える」ことはなかっただろうという意味です。みなさんは、どうですか?



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