そっくりなものなら平気でその命を奪える
そっくりなものなら平気でその命を奪える
星野廉
2022年3月19日 15:03
目次
文字は文字どおりに取れない
そっくり、すっきり、かっきり
そっくりなものを壊す、殺める、消す
顔が見えない
文字は文字どおりに取れない
文字どおりに取れないものは文字だとつくづく思います。文字は読めないし、だいいち見えないのです。
猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫
これが猫なのですよ。信じられますか。文字どおりに取れません。額面どおりにも取れません。
猫を飼っていたり、猫と親しい関係にある人にとって、猫という文字に対する思い入れは、そうではない人と大きく異なるはずです。
自分の飼っていた、あるいは飼っている猫の顔が頭に浮かぶのではないでしょうか。その猫ちゃんと過ごしたさまざまな日々が思いだされたり、その猫ちゃんの感触やにおいや目の色や表情や仕草といったものが、五感に呼びさまされるかもしれません。
猫という文字が抽象的な記号として感じられないという意味です。犬やハムスターや、場合によってはイグアナも、そうでしょう。
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消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム、消しゴム
消しゴムは製品であり商品です。大量生産された製品であっても、ある特定の消しゴム、つまり自分が愛用していたり、いまも愛用している消しゴムであれば思い入れがあるでしょう。
たとえ大量生産されたものであっても、自分にとって「たった一つ」の愛しいものはあるという意味です。
とはいっても、やはり取り替えがきくとか、その他多数のうちの一つであるという思いはあるにちがいありません。
消しゴムと同じく大量生産された自転車や車もそうでしょう。お店でずらりと並んで陳列されているスリッパや帽子もそうだと考えられます。
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サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ、サンマ
サンマも消しゴムやスリッパと同様に、お店にずらりと並べてあります。大量生産されたものではありませんが、大量に漁獲されたものです。
大量、これがキーワードです。つまり同じものが、そっくりなものが、似たものがずらりと並んでいる、これが、「取り替え可能」なのであり、「その他多数のうちの一つである」という意味です。
サンマをペットとして飼った方はいらっしゃいませんか? まずいらっしゃらないでしょうが、万が一飼ったことがある人であれば、飼ったことがない人とは異なる見方をなさるにちがいありません。
食べられない人がいても私は驚きません。
これは、ニワトリ、ブタ、キュウリ、トマトでも同じでしょう。
ペットとして飼ったり、お仕事として飼育したり、園芸を趣味として栽培したり、お仕事として栽培したりという具合に、その経験によって、その動物や植物を表す文字に対する思いや思い入れは異なるはずです。
※特定のどなたかを責めているわけではありません。ご理解願います。
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文字が文字どおりに取れないというのは、それくらいの意味です。文字が文字としてではなく、文字以上のものとして、個々人に立ち現われることがあるとも言えます。
そっくり、すっきり、かっきり
文字とはそっくりなものです。
人
いま私がこの画面に書いたこの文字は、パソコンやスマホなど数えきれない端末の画面に同時に閲覧されるはずです。しかも、私が削除しない限りは残ります。
私が上で書いた「人」という文字は私だけの専有物ではありません。誰もが使うことができるし、使ってきたし、いまも使っているし、これからも使われるでしょう。
他にも無数にあるという意味です。
それが「そっくり」です。
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そっくりはすっきりでもあります。世界中にいまいる人、これまでにいた人、これからいるであろう人を指します。
あっさり書きましたが、すごいことです。書いたものの、その意味を取りかねている自分がいます。当惑し呆然としている部分が自分の中にあるのを感じます。
よく考えてみてください。無数の人を人という言葉が代表しているのです。代理なのです。似たもの、似ているもの、似せたもの、にせもの、偽物なのです。そっくりなのです。激似なのです。
考えれば考えるほど目まいを覚えずにはいられません。
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文字はシンプルに見える。いくらでも複製・拡散可能。
これが「すっきり」です。
文字は知識であり情報でもありますから、シンプルであることに越したことはないのです。持ち運びやすく、さくさくと読めなければなりません。
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これが抽象です。抽象化とも言います。
個々人の個性を消し去って人という文字に換言し還元する。個性とその人の背景とその人の生の総体を切り捨てた結果が、人という文字です。
抽象という名の切り捨てとはこのように残酷なものだということに敏感でありたいと思います。
こんな恐ろしい抽象の産物である人という文字を文字どおりに取れるでしょうか。額面どおりに取るためにはある種の鈍感さを必要とするのではないでしょうか。
顔面通りに取るわけにはまいりません。
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誰々が悪いという話をしているのではありません。ある種の鈍感さと忘却という抽象化なしに、人は文字を読めないし文章も読めないし書けもしないからです。
この抽象化がなければ、人は人でないし、この文明と文化はないわけですから。
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人は人なの、どこが違うと言うの?、いったいどういう神経をしているわけ?、あなたの考えこそ抽象でしょう、屁理屈はやめてよ、冗談は顔だけにしてくださいな。
たとえ、そう言われたとしても、額面どおりに人が「人かっきり」だなんて信じられません。「千円かっきり」じゃないんですから。「それ以上もそれ以下もその他もろもろも含んで人」なんです。
人は、そっくりでもないし、すっきりでもありません。そっくりですっきりでかっきりなのは、人という言葉であり、人という文字なのです。
人は言葉でも文字でもありません。これが屁理屈なら、屁理屈上等だと言いたいです。
そっくりなものを壊す、殺める、消す
人はそっくりなものなら壊せます。取り替えがきくし、その代わりや似たものが他にもたくさんあるからです。
人はそっくりなものなら平気で殺めることができます。そっくりなものであれば、その命を平気で奪うことができます。
そっくりなものには個性も顔も家族も見えません。すっきりして見えるのは、切り捨てたからです。
そっくりなものかっきり、つまりそっくりなもの以外の要素が切り捨てられたからです。
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抽象化はきな臭く血生臭いものなのです。
切って血が出ないわけがありません。何がって、生身の人間のことです。また、家族や愛用する物たちやペットや友人や隣人たちと切り離されれば、涙が出るに決まっています。
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数字と同様に、文字はそっくりすっきりかっきり。
顔が見えないものを人は平気で殺めることができるのです。破壊することができるのです。
いまは破壊したり殺めるためには、ボタンを押すだけの時代になりました。戦車もミサイルもボタン一つを押せば任務遂行のために動きます。
ボタンを押す人にとって、その標的に顔がないことは確かでしょう。その標的は、数字と同じく、そっくりすっきりかっきりな文字であるにちがいありません。
いちばん文字を文字どおりに取ってはいけない人が、ボタンを押している気がします。
顔が見えない
上の文章で記事を終わらせようとして、はっとしました。
顔が見えないのです。ボタンを押す人の顔が浮かびません。その人物も、私にとっては人という文字にすぎないことに気づきました。抽象化された人という文字なのです。
人
これも、そっくりすっきりかっきりじゃないですか? 私も同じ穴のムジナだということになりませんか?
誰もが、代理なのです。似たもの、似ているもの、似せたもの、にせもの、偽物なのです。そっくりなのです。激似なのです。
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たとえば、例のあのボタンの中のボタンを押しそうな人、例のあのボタンを押す権利を握っている人たちが世界には何人もいますが、その人たちの写真や動画や名前は見たことがあっても、そうした映像や文字は「似たもの」「そっくりなもの」でしかありません。コピーのコピーなのです。
私はあれが「顔」だなんて思いません。「顔を知っている人」だなんて言えません。やはり私にとっては「人という文字」であり「文字という人」なのです。
自分も、自分以外の誰もが、です。私たちは、そうした「そっくりすっきりかっきり」に囲まれて生きているのです。
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世界そのものが「そっくりすっきりかっきり」として立ち現われているとも言えるでしょう。
それぞれが区別できないそっくりなものからなる世界に、誰もが生きている。たとえ、もしそうであったとしても、それは自分に対する免罪符にはならないでしょう。
かといって世界を背負いこむわけにもまいりません。それこそ身の程知らずな了見というものでしょう。セルバンテスの描いたドン・キホーテと同じです。相手が大きすぎます。というより、相手にされないというべきでしょう。
月並みな言葉ですが、いまの自分に何ができるか、それから考えていこう。まずは、顔が浮かぶ人たちと生き物たち、自分にとってただ一つの物たちを大切にしていこう。そう思っているところです。
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