引用の織物

引用の織物
星野廉
2022年7月22日 07:54


目次


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引用

(夏目漱石の『吾輩は猫である』より引用)


(芥川龍之介の『杜子春』より引用)


(紫式部の『源氏物語』より引用)


(中原中也の『感情喪失時代』より引用)


        〇


 どこまでが引用でどこまでがオリジナルなのでしょう。

 どこまでが借り物でどこまでが自分の物なのでしょう。

 どこまでが借り物でどこまでが仮の物なのでしょう。

 どこまでがコピー(複製)でどこまでがオリジナルなのでしょう。

 どこまでがコピー(宣伝文句)でどこまでが詩の文句なのでしょう。


 どこまでが詩でどこまでがデタラメなのでしょう。

 どこまでがデタラメでどこまでがおふざけなのでしょう。

 どこまでが本気でどこまでが正気でどこまでが狂気なのでしょう。


 どこまでが本物でどこまでが偽物なのでしょう。

 どこまでが偽物でどこまでが似たものなのでしょう。

 どこまでが偽物でどこまでが似せたものなのでしょう。

 どこまでが偽物でどこまでが複製なのでしょう。

 どこまでが本当でどこまでが嘘なのでしょう。


 引用の元をたどるとそれもまた引用だったりして。

 借り物の元をたどるとそれもまた借り物だったりして。

 コピーの元をたどるとそれもまたコピーだったりして。


 コピーの中にバグや変異やズレが含まれていたりして。

 そっくりなのに中身が空だったりして。


 起源神話の根強さ。

 オリジナル神話のたくましさ。

 本物神話のしつこさ。


        〇


 あなたが持っているある本を開いてみるとします。


 ある一文があります。印刷物であるその本はどこか他にもあるはずです。


 あなたが見ている一文は、どこか他にある本の一文と同じはずです。あなたがその一文をPCなりスマホなりで書き写したとします。


 その一文を引用として明記するのではなく、自分の記事の中で自分の創作として公表したとします。


 それは盗作でしょうか。著作権に触れる行為として責められるべきものなのでしょうか。


 その一文の長さ、つまりデータの量の問題でしょうか。短い一文ならOK、長い一文ならたぶん問題かも、二文ならアウト――その程度の話なのでしょうか。


 あるいは、少し手を加えて変えればそれで問題なしと考えていいのでしょうか。誰でも書きそうなものなら大丈夫だという程度の認識でいいのでしょうか。


 それとも、単に良心の問題なのでしょうか。ばれたら、偶然の一致じゃないですか、ととぼければいいのでしょうか。


 パロディですよ、オマージュです、と言って笑って済ませばいい問題なのでしょうか。


 私には分かりません。


 文学だけの問題ではありませんね。音楽、アート、科学技術、ビジネス、学問全般において活動する際にも避けられない問題のようです。


 いっしょに考えてみませんか。


        〇


 みなさんは、俳句を詠む場合、まずどうなさいますか? 今まで俳句を詠んだことのないヒトが、俳句を詠もうとするとき、5・7・5という規則だけをあたまに入れて、いきなり、森羅万象に目を向けるなんてことをするでしょうか? そのまえに、既存の俳句を読むだろうと思います。


*俳句は、いきなり詠むのではなく、まず読む。


のです。


 和歌であっても、ヨーロッパの言語の定型詩でも、状況は同じだと思います。さらに言うなら、韻文だけでなく散文でも同じことが言えるような気がします。たとえば、基本的に何を書いてもいい、


*小説は、小説を読んでから書ける(=掛ける=賭ける)。


のです。話を一気に飛躍させますが、ヒトの赤ちゃんは、いきなり言葉をしゃべりません。


*赤ん坊は、話し言葉を聞いてから話すようになる。


のです。


(拙文「つくる(4)」より引用)


        〇


 言葉はみんなのもの。

 誰もが生まれた時に、既にあったもの。


 言葉は真似るもの。

 誰もがまわりの人の言葉を真似て学んだ。

 まねる、と、まねぶ、と、まなぶは、きょうだいだったらしい。


 自分が口にする言葉は既に誰かが言ったもの。

 自分が書いている言葉は既にどこかに書いてある。


 言葉は借り物。

 既にある言葉を借りて使わせてもらう。

 借り物は返さなきゃならない。

 次の世代のために残すもの。


 だから、大切に使おう。

 言葉はみんなのもの。


 誰もが生まれた時に、既にあったもの。


(※お断りしておきますが、著作権を否定しているわけではありません。むしろ著作権を支持しています。ただし著作権は制度であり、著作権という考えが出て来たのは、言葉の長い歴史の中ではほんの最近の出来事なのです。これを機に著作権についてもっと勉強しようと思います。)


        〇


 レプリカ、レプリ力、レプリカ


 上の三つのうち、真ん中の「力」は漢字の「ちから・リキ」なんですけど、こんなの分かりませんよね。


 アンド口イド、アンドロイド、アンドロイド


 上の三つのうち、最初の「口」は漢字の「くち・コウ」なんですけど、これもそっくり。違っているなんて分かりませんよね。


 でも、デジタル化された情報としては別物らしいのです。アナログな体感重視派としては、もう泣きそうになりながらも「同じだ」と言いたいです。ちなみに、今使った「アナログ」ではいたずらはしていませんよ。


 一見そっくりなコピー(あるいはコピーもどき)の中に微小な変異が潜んでいても分からないみたいですね。そう思うと怖いです。


 ところで、力フカをカフカと呼んでしまうのは、おそらく学習の成果であって、そう読み間違えないほうが尋常ではないと思われます。


        〇


 私は散文的な人間で詩歌は作れないのですが、日本の伝統的な定型詩には興味と敬意をいだいています。いまも多くの詠み手がいるのは短歌や俳句ですね。


 伝統的な定型詩には先行する膨大な数の作品があります。そうした先人のあるいは先輩の作品を読んで自分でも詠む。「読む」が「詠む」につながる。考えてみるとすごい話じゃありませんか。自分が大きな伝統の連鎖につながる、つらなる、つまりその一部になるのですから。


 もっとも、短い定型詩ですから、同一の、あるいはほぼ同じ作品が生まれるという事態も頻繁に起こるみたいですね。私はそうしたジャンルに身を置いて活動していないので、何とも言えませんが……。想像すると怖いです。


(拙文「言葉を誘い出すもの <言葉は魔法・023>」より引用)


        〇


 世界は似たものに満ちている。

 世界は顔で満ちあふれている。


 似ているはいたるところにある。

 同じや同一はない。


 似ているは印象。

 同じと同一は検証しなければならない。それも機材を用いて科学的に精密に。


 似ているが人にとっての体感できる現実。

 同じと同一は人にとっては抽象でしかない。


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        〇


剽窃

(〓〓の『〓〓』より引用)


から

(詠み人知らず)


遠く

(author unknown)


離れて

(anonymous)

※「剽窃(ひょうせつ)」はあまり使われない言葉ですね。他人の作品やアイデアを盗作して発表する行為のことです。引用やパロディやオマージュが剽窃と見なされることがよくあります。


        〇


「MajiでHyosestuする5秒前」・「世界で一つだけの剽窃」・「剽窃3兄弟」・「剽窃は突然に」・「CAN YOU 剽窃?」・「剽窃は勝つ」・「世界中の誰よりきっと剽窃」・「硝子の剽窃」・「Addicted To 剽窃」、「ロマンスの剽窃さま」・「剽窃されるより 剽窃したい」・「剽窃するボンボコリン」・「ヒョウセツノムコウ」・「剽窃するフォーチュンくっきー!」・「ずるイ剽窃」


3窃・剽窃の不時着・あつまれ剽窃の森・ヒョウセツノマスク・オンライン剽窃・剽窃の刃・GOTOひょうせつ・ひょうせつちゃん・剽窃などあろうはずがありません・ぼーっと剽窃してんじゃねーよ!・剽窃論法・ひょうせつずラブ・剽窃ファースト・剽窃の2回生・げす剽窃・安心して下さい、剽窃してますよ。・剽窃ウォッチ・ヒョウセツミクス・特定剽窃保護法・ブラック剽窃・手ぶらで剽窃させるわけにはいかない・窃活・イク窃・草食系剽窃・名ばかり剽窃・ゲリラ剽窃・後期剽窃者・消えた剽窃・剽窃王子・剽トレ・剽窃があるさ


『ライ麦畑で剽窃して』・『ボクはイエローでホワイトで、ちょっと剽窃』・『剽窃写真集』・『超図解剽窃』・『剽窃少年の事件簿』・『剽窃宣言』・『真夏の夜の剽窃』・『剽窃する勇気』・『剽窃を10倍楽しくする方法』・『剽窃と瓢簞の見分け方』・『盗作と倒錯と創作の見分け方』・『剽窃の時』・『金持ち剽窃さん貧乏剽窃さん』・『剽窃のかんづめ』・『だからあなたも剽窃して』・『こんなに剽窃していいのかしら』・『剽窃タワー  オカンとオイラと、時々、ゴットン』・『ノルウェイの剽窃』・『剽窃記念日』・『君たちはどう剽窃するか』・『きみの剽窃をたべたい』・『誰のために剽窃するのか』・『世界の中心で、剽窃を叫ぶ』・『チーズはどこで剽窃中なのか』・『剽窃ちゃん』・『パリー・ホッターと剽窃の部屋』・『剽窃の壁』・『老人と剽窃』・『剽窃失格』


        〇


 小説から遠く離れて

 ベトナムから遠く離れて

 アメリカから遠く離れて

 テクストから遠く離れて

 フタバから遠く離れて

 双葉から遠く離れて

 ぼくから遠く離れて

 君から遠くはなれて

 シブヤから遠く離れて

 あの戦争から遠く離れて

 彫刻から遠く離れて

 起源から遠く離れて

 愛から遠く離れて

 ミヤコから遠く離れて、みる

 江國香織から遠く離れて

 歓声から遠く離れて

 リバプールから遠く離れて

 カフカから遠く離れて

 シナリオから遠く離れて

 ルイユから遠くはなれて

 “ふつう”から遠くはなれて


        〇


 似たものは目まいを誘います。

 くらくらしてきました。


 一方で適度の似たものは安心感をもたらすようです。

 というか、人は常に適度に似たものに囲まれているように思えます。


 何にも似ていないものに囲まれたとしたら、人はメンタルをやられる気がします。


 人は似たものに囲まれている。

 それが常態なのかもしれません。


 持論ですが、適度に似たものとは顔です。比喩でもあり比喩でもありません。

 人はいたるところに顔を見ます。


 人面〇〇どころではなく、左右の目と口に当たる三点があると、もうそれで顔を認めるのに十分なのだそうです。こういう空想は子どものほうが得意だといわれています。


 ●      ●


     ●


 世界は顔に満ち満ちているのです。

 ときには不気味な顔も見ますが、基本的に人は顔に囲まれていることで安心します。


 人にとって最初の顔は、やはり「母親」(括弧付きです)なのかもしれません。


        〇


 真、偽、本、顔、素顔、真性、本性、真名、真字、本名、偽名。


(拙文「『仮往生伝試文』そして / あるいは『批評 あるいは仮死の祭典』」より引用)


        〇


 裏千家と表千家。どんな道、つまり芸道にも派閥が付きものです。流派、主流派と非主流派、正統と異端、多数派と少数派、保守と革新、本家と分家、正と邪、主と従、下克上、復古……。


 西ローマ帝国と東ローマ帝国、西の大関と東の大関、北軍と南軍、北酒場と南酒場、右大臣と左大臣、右往左往、左前と右前、上り電車と下り電車、上座と下座と土下座、うなぎ登りとつるべ落とし。


 パンタレイ。


 京都〇川と大阪西〇と東京〇川。木村屋、きむらや、キムラヤ。柔道とjudo、俳句とhaiku、野球とベースボールとクリケットとソフトボールとカラーボール野球と野球拳……。


 パンタレイ。


(拙文「三つ葉の日、三ツ矢サイダーの日、シルクロードの日、京都裏千家利休忌」より引用)


        〇


*連想ゲーム、一人ブレーンストーミング(※今後の記事のためのメモ)


 うつす、写す、移す、映す、遷す、撮す、伝染す

 うつる、写る、移る、映る、遷る、撮る、伝染る


 DNA、親子、きょうだい、はらから、親族、細胞、生殖、性交、分裂、繁殖、双生児、バニシング・ツイン、多胎児


 印刷、なぞる


 ならう、倣う、倣う

 まねる、真似る


 まなぶ、まねぶ、学ぶ、真似ぶ


         *


 鏡、カメラ、水面、反射、幻灯、影、映画、幻灯、谺・エコー、反響

 鏡像、ネガ、ポジ、縮小、拡大


 はなす、話す、放す、離す

 うける、受ける、承ける、請ける

 つたえる、伝える、つたわる、伝わる


 糸電話、電報、テレックス、電信、無線、電話、放送、インターネット、網、電網

 感染、伝染、感染、転写、複写、アクシデント、変異


 印刷術、複製文化、複写機、コピーペースト、コピペ

 デジタル化、視覚化、映像化、映画化、舞台化、言語化


 真似、複製、レプリカ、パプリカ、フーリン、ふーせん、言葉遊び、比喩、暗喩、隠喩、直喩、だじゃれ、オヤジギャグ、偽物、贋作、盗作、剽窃、オマージュ、本歌取り、パロディ、伝承、伝統文化、師弟、本家・分家、本流・亜流、正統・異端、著作権侵害、クリエイティブ・コモンズ、ミメーシス、ミーム、パクリ、もじり、風刺、形態模写、文体模写、物真似、そっくりのど自慢、そっくりショー、擬態


 印刷、謄写版、印鑑、シャチハタ、ハンコ、芋ハンコ、消しゴムハンコ


 同調、共鳴、共振、シンクロ、同情、思いやり、感情移入、なりきり、同意、賛成、賛同、共感

 想像、創造、捏造、妄想


 変換、換金、転換、交換、転移、変異、変移、変位、代理、代議制、ルプレザンタシオン、上演、代行、代理店、エージェント、表象、記号、信号、象徴


 パラレルワールド、反世界、反宇宙、反物質、反粒子、陰陽、陽子、中性子、イオン、プラスマイナス、対称・非対称、VR、絵空事


 再生、再現、リピート、変奏、アレンジ、編曲

 仮装、女装、男装、異装、ユニホーム、お仕着せ、制服


 インターネット・ミーム、イミテーション、イミテーションゴールド、まがいもの、章句品サンプル、フェイクファー、フェイクニュース、人工肉、アンドロイド、マネキン、ハウスマヌカン、分身、ゴーストライター、影武者、そっくりさん、こっくりさん、ひょっこりさん


 多重人格、二重人格、分身


 RT、リレー、リピート、リプロダクション、リストア、リフォーム、リサイクル、レコード、ルプレザンタシオン、レプリカ、リプレー、リプリー、太陽がいっぱい、パトリシア・ハイスミス、分身


 引用、パッチワーク、ごった煮、コラージュ、ブリコラージュ

 フュージョン、異化、アドリブ、ジャズ、パスティーシュ


 インスピレーション・霊感、憑依、オートマティスム(自動筆記)、神託、イタコ

 メタフィクション、小説の小説、演劇の演劇、作中劇、不条理演劇、シュール、ドタバタ


 ジャズ、アドリブ、インプロヴィゼーション、即興、でまかせ、おまじない、ナンセンス、ノンセンス


        〇


 今回は、そのうちの特に「そっくりなもの」について、前半で、ヒトや他の生き物の顔を見分けることを例にとって、あれこれと書いてみました。変な質問も、いくつかしました。「そっくりである」と知覚することの不思議さと、そのメカニズムの複雑さを、体感的に感じとっていただければ、「記号」というトリトメのないものを「感じとる」のに、とても役立つからです。たった今、「感じとる」という言葉を使い、「理解する」と書かなかったのは、トリトメのないものを、頭で理解しようとするのは、ある種の矛盾をはらんでいるからです。


 もしも、あなたのまわりに、外見がそっくりな人たちが、いっぱいいたとします。それは不気味ですよね。でも、外見がそっくりなものたちが、いっぱいあったとしても、別に不気味ではありませんね。スーパーで売られるために陳列されている製品が、「そっくりなものたち」の典型例です。「そっくりなヒトの羅列」=「不気味」と「そっくりな商品の羅列」=「当たり前」との差は、何でしょう? 


 このように、自分が当たり前だと思っていることに、揺さぶりをかけたり、突拍子もない質問で軽いめまいを覚える。そのさいには、脳を使って考えてみるだけでなく、自分の知覚を総動員して「体で考えてみる」。そうしたことが、現在の人たちが忘れかけている、大切な「知覚する」といういとなみの1つだと思うのです。


 世界とは、頭による理解可能とは縁遠い「何か」なのです。その「何か」が「分かる」ことを苦渋の果てに放棄し、「分からない」 or 「トリトメのなさ」を体感する。そうした行為の対象となるべきものが、たとえば「そっくり」なのだと思います。個人的な意見ですが、「そっくり」はきわめて現代的な状態だと思います。


 コピー=複製がいとも簡単になったのは、ヒトの歴史という尺度から見れば、ごく最近の出来事だからです。これほど「そっくり」に囲まれた状況は、ヒトの歴史の中ではなかったと考えられます。安易に「記号」という言葉で「そっくり」を理解した気持ちになったり、お茶を濁したくありません。


(拙文「そっくり」in「そっくりという、まぼろし」より引用)


        〇


 そっくりがそっくりをそっくりな場所でそっくりなやり方で売る、そしてそっくりなお客さんたちがそっくりなやり方で買う。そして、自分もまたそっくり化していることにふと気づき、唖然となる。


 おそらくこれが資本主義なのでしょう。というか、資本主義の顔であり表情であり身振りなのでしょう。


(拙文「そっくりという、まぼろし*」より引用)


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        〇


 言葉、話し言葉

 口承文学

 口伝え


 伝承

 うける、受ける、承ける、請ける

 つたえる、伝える、つたわる、伝わる


        〇


 言葉、文字

 聖書の写本

 経典の写本

 源氏物語の写本


 うつす、写す、移す、映す、遷す、撮す、伝染す

 うつる、写る、移る、映る、遷る、撮る、伝染る


        〇    


*「言い換える=置き換える=伝える=知らせる=言葉にする=何かの代わりに何か以外のものを用いる」


という意味での


*「翻訳」


は、


*不可能


だというほうに傾いています。これを「翻訳」すると、


*異言語間の翻訳は大いなる妥協でしかない。


とか、


*個人レベルで、ヒトとヒトとは分かり合えない。


となります(※「翻訳」は不可能だという意味のことを書いた後に、「翻訳」をやっている。これが、「でまかせしゅぎ」です。どうぞ、よろしく)。


     ■


 ところで、


*世界一のベストセラーは、バイブル=聖書だ。


と聞いたことがあります。実際、あれほど多数の言語に翻訳された書物はないのではないでしょうか。しかも、


*何語で書かれて=訳されていても聖典だ。


ということらしいのです。


*聖典としての翻訳を絶対に認めないクルアーン(コーラン)


とは、考え方が対照的ですね。


(拙文「翻訳の可能性と不可能性」より引用)


        *


 翻訳と原著は別物だというのは、突拍子もないたとえかもしれませんが、夏目漱石の『我輩は猫である』の東北弁訳と関西弁訳を想像してみると分かりやすいのではないでしょうか。そんな「翻訳」が二つあったとして、原文というものがあり、その翻訳は原文と「等価なもの」であるはずだ、と頭で理解していても、原文を含めた三者が同じものであるとは日本語の語感が許さないのではないでしょうか。


 語感とは体感にきわめて近く、身体的なものだと思います。理屈や知識でねじ伏せるわけにはいかないという意味です。


(拙文「恐るべき敬体小説(言葉は魔法・第3回)」から引用)


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        〇


 似たもの

 そっくりなもの

 同じもの

 ほぼ同じもの

 同一のもの

 等価なもの

 等しいもの


 あなたの持っている消しゴムはどこかにある消しゴムと同じ

 でもそれらは同一ではない。同一のものは世界に一つしかないはずです。分子とか原子レベルの話でしょう。


 むしろ、それはそっくりなのです。

 そっくりなところがそっくりなのです。

 激似なのです。


 人は似ているとそっくりしか認識できません。印象とも言います。

 その意味で、同じ、同一、等価、等しいは個人のレベルにおいては抽象なのかもしれません。機器をもちいない限り、検証不能だからです。 


 さて、


*「似ている」が、あちこちにあふれている。


一方で、


*「同一である」ということは、きわめて、まれな現象である。


と言えそうです。


 なぜなら、「同一であるものは、原則として=基本的に、ある特定の1ヶ所だけにしか存在し得ない」という屁理屈が理由であるだけでなく、「同一である」ことを、ヒトが知覚したり、知覚した結果を認識し、断言するに至るまでには、かなりの時間=間(=ま・あわい)と隔たり=距離が必要だからです。


*ヒトにとって、「似ている」は「近しい=親しい」現象であるが、「同一である」は「ほぼ知覚不能」な現象である。


と言っても言いすぎではないような気がします。


(拙文「あらわれる・あらわす(8)」より引用)


        〇


 うつす、写す、移す、映す、遷す、撮す、伝染す

 うつる、写る、移る、映る、遷る、撮る、伝染る


        〇


 初めて目にする影、初めて見る鏡、初めて覗くカメラのファインダー、初めて見る写真――。思いつくままに並べたフレーズですが、どれもが「うつる」と関係あります。影に映る、鏡に映る、ファインダー越しの眼に映る、写真に写る。


 こうした行為や身振りを個人レベルで初めて体験するさまを想像するとわくわくどころか、ぞくぞくしてきませんか? 自分の記憶の中の、そうした場面を思いだしてみてください。と言われても、なかなか覚えていませんよね。



 人類のレベルで空想してみましょう。


 初めて目にする影、初めて見る鏡、初めて覗くカメラのファインダー、初めて見る写真。影に映る、鏡に映る、ファインダー越しの眼に映る、写真に写る。


 こうした身振りや行為を人類というレベルで初めて体験したさまを想像すると、これまた気が遠くなりそうです。不思議だったでしょうね。たまげたにちがいありません。


 初めての鏡なんて、雨のあとの水たまりとか川とか湖の水面だったのではないでしょうか。水面に映った自分の姿を覗きこんだナルキッソスの話を思いだします。エーコー(エコー)の話もありましたね。こだまは、木霊、木魂、谺ですが、これも音声が遠くへとうつるわけです。


「うつる」には距離がともないます。その距離は空間的であったり時間的なものでしょう。そう考えると「うつる」は、「つたわる」「つたえる」に近そうですね。



「うつる」の漢字をまじえた表記には自信がありません。辞書や用字辞典で確かめながら書きますが、例文が同じだったりして、自分の書きたい文でどちらをつかったらいいのか、迷うことがよくあります。とくに「映る」と「写る」は迷います。


「にやけた顔で写っている」「裏のページの絵が写って読みにくい」「鏡に映った顔」「障子に映る人影」なんて複数の辞書やネット辞書でも見かける例です。孫引きというやつですね。辞書の例文や語義は、伝染んです。


 きょとんとなさっている、お若いあなた、「うつるんです」と読んでください。とってもシュールで味わいのある漫画です。


 うつる、写る、映る、移る、遷る、伝染る、流行る、孫引る、引用る、模倣る、写本る、写経る、印刷る、翻訳る、映画る、写真る、複製る、放送る、網路る、偽造る、剽窃る、盗作る、広告る、宣伝る、布教る、革命る――。


 こうしたものは、ぜんぶ、うつるんです。ですから、ぜんぶ「うつる」と読んでください。よくご覧ください。人類の歴史そのものでもあります。


(拙文「【夜話】ぜんぶ「うつる」と読んでください」より引用)


        〇


 今思い出しましたが、ジェイムズ・M・ケイン作の『郵便配達はいつもベルを二度鳴らす』(または『郵便配達はベルを二度鳴らす』)という邦訳が、田中西二郎訳、田中小実昌訳、中田耕治訳、小鷹信光訳の四種類も楽しめた(つまり本屋に並んでいた)時期がありました。こっちは原著なしで、日本語訳だけを四種類読み比べましたが、わくわくするような体験でした。若くなければできない冒険だと今になって思います。そう言えば、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(または『九つの物語』)もいくつかの訳本がありましたね。私は野崎孝による邦訳しか読んだことはありませんが。


『失われた時を求めて』の井上究一郎訳を私が好きなのは、律儀に訳してあるからです。つまり、センテンスが長くてとても読みにくいのです。ああいうのを難しいとは私は言いません。とにかく読みにくいのです。でも、あれよあれよという感じで気持ち良く読み進めることができました(難しいものはあれよあれよとは読めません、私の場合には)。「できました」と過去形なのが残念です。寂しいです。今は無理ですね。


 井上訳を原文に忠実な訳とは言いません。フランス語がろくにできないのに、偉そうな言い方をしてごめんなさい。あれは忠実と言うよりも、律儀な訳なのです。そもそも外国語の作品を原文に忠実に訳すなんてあり得るのでしょうか。はなはだ疑問です。


 直訳という言葉を思い出しました。そればかりか、意訳、逐語訳、逐次訳、大意、抄訳、完訳、改訳、重訳、超訳、名訳、迷訳、誤訳というぐあいに、次々とあたまに浮かびます。あと、翻案というものもありますね。翻案を広義の翻訳と見なすと、パスティーシュやオマージュや文体模写まで広義の翻訳だと言いたい気分になります。


(拙文「いやだ、ズルしちゃ駄目よという感じでしょうか」より引用)


        〇


 うつす、写す、移す、映す、遷す、撮す、伝染す

 うつる、写る、移る、映る、遷る、撮る、伝染る


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        〇


*ヒトがつくるものは、ヒトに似ている。


と前回に書きましたが、今回も、前回に引き続き、


*つくる


の前の段階である、


*似ている


に徹底的にこだわってみたいです。


これを片付けないと、「つくる」に話を移せない気がするのです。「似ている」について考えるさいには、自分自身の実体験や、自分が体感できる経験を材料にするのが、いちばん分かりやすいと思います。何と言っても、世の中でもっとも関心があるのは自分自身であり、もっとも信頼できるのは、自分自身の感性や感覚ではないでしょうか。


(拙文「つくる(2)」より引用)


        *


 似ているもの

 そっくりなもの

 同じだったり同一かは保留しての話


 そっくりなものはたいてい人間がつくり出したものではないでしょうか。

 そっくりな点がそっくりなのです。

 それくらいそっくり。


 人には同じに見える、そっくりなものには自然物にはない精巧さが備わっています。

 同じものなんて、人がつくらないかぎりないのではないでしょうか。


 人がつくるそっくりなものには、どこか人に似たところがあります。部分的に似ているも含めて。

 人に似ているのは、むしろ人が無意識に似せているからかもしれません。


 自分や自分の仲間に似ているから安心するのです。

 人は不気味なものはつくりません。不気味に似たものはつくりますよ。でも、何にも似ていない不気味なものはつくりません。


 テレビは、「記号」と非常に相性がいいのです。おととい行った電気製品の量販店は、「記号」に満ち満ちていました。商品とか製品は、大量生産されて、そっくりなものがたくさん存在しますね。「記号」というもののイメージは、まさにそれなんです。


*そっくりなものが、多量に並んでいる。そっくりなものが、世界各地に散らばって存在している――。


そういうイメージのものが、「記号」なんです。テレビの売り場なんて、そっくりな(※「同じ」や「同一」とは違います)映像がずらりと並んでいるのですから、それこそ「ほんまもん」の記号だらけなんですよ。はい。


>すべてのものは、「記号」という幻(まぼろし)を発している


今、コピペしたのは、さきほど上で書いた文です。


*幻=まぼろし=間ぼろし=間滅し=魔ぼろし=魔滅し


(拙文「人面管から人面壁へ」より引用)


        *


 ところで、こうやって自己引用をしていると、私は以前からいつも同じことを言っているような気がしてなりません。こうやって記事を書いていると既視感の洪水に襲われる気分になります。


 やっていることが同じなんです。同じことを繰り返しているのです。

 そっくりなのです。そっくりな点がそっくりなのです。

 金太郎飴とそっくり。


 進歩がないとしか考えられません。ギネスには「進歩がない」という項目はないのでしょうか。


        〇


 このnote内で投稿する記事は、すべて「随時更新中」にしてあります。


「随時更新中」とは、いったん投稿した記事に随時加筆していくという意味です。いったん投稿したブログ記事をいじりまくる癖のある私にとって苦肉の策なのです。


 そんなわけで、記事の内容が大きく変わる可能性があります。現在ここで新規に投稿している記事もまた、ほとんどが過去に投稿したもので、何度もなんども加筆したり書き直して現在の形に至っています。


 私にとって新規投稿はないと言えそうです。あるのは再投稿ばかりなのですが、再投稿をするたびにズレが生じるという言い方が正確かもしれません(写す移すたびに何らかのズレが生じるという意味では写本と似ています)。


 したがって記事間の重複が多く、過去の記事のパッチワーク(いわば自己引用の織物です)、あるいはコラージュみたいな形の記事が目立ちますが、すべては「随時更新中」だからなのです。ご理解いただければ幸いです。


(拙文「サイトマップ・星野廉@随時更新中」より引用)


        〇



 始まりと終りは捏造されたもの。つねに揺れうごく、移り変わるがあるだけ。


 いま、ここでを大切にしたい。移り変わる自分を尊重したい。


 未完成を恐れない。断片でいい。重複を恐れない。冗漫でいい。矛盾を恐れない。



 固定することなく揺らぐ。決定稿などない。暫定を決定と呼ぶのは気休め。


 印刷物は固定を指向する。一方でネット上の文章は常時改変と改編にさらされている。これを自由と考えよう。印刷の時代、つまり固定の時代がそこそこ長く続いたようだが、その前には写本と口承による時代がそこそこよりはずっと長く続いていたことを思い出そう。


 写本や写経や口承の時代は必ずしも固定が優勢であったわけではなく、つねに改変と改編があった。作者やオリジナルや本物という観念がまだなかった時代。写し間違い言い間違いや意識的な改変と改編と新たな創作がおそらく罪の意識もなくおこなわれていた時代。


 間違いを恐れず、未完成を遠慮することなく、断片であってかまわないから、随時更新中の自分を尊重しよう。


(拙文「随時更新中・星野廉@随時更新中」より引用)



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