黒いカラスは白いサギ
黒いカラスは白いサギ
星野廉
2022年7月30日 08:00
誰もが生まれたときに、すでにあるもの。つねに人の外にあって、それでいてときに人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で、人にとって「外」であるもの――。言葉のことです。
こんなものは他にありますか。
(拙文「人の外にあって、人の中に入ったり出たりして、思いどおりにならないという意味で「外」であるもの」より)
目次
言葉をいじるのは簡単、現実をいじるのは困難
最高権力者の言葉
いったん外に出した言葉を撤回するのは難しいというか恥ずかしい
投稿=複製=拡散=流通=保存が、ほぼ同時に一瞬のうちに起きる時代
言葉の上での辻褄合わせを現実よりも優先させる
面子を捨てる勇気を持つ
言葉を崇め、その前にひれ伏す
言ってしまった以上、広まってしまった以上、回収して取り戻すわけにはいかない
いわば言葉の一人勝ちなのかもしれない
言葉をいじるのは簡単、現実をいじるのは困難
黒いカラスは白いサギ――。このフレーズを見て、何を連想なさいますか?
詩の一部に見えるかもしれません。広告のコピーとか、なにかのキャッチフレーズかなと思う人がいても不思議ではないでしょう。黒を白(または白を黒)と言いくるめるとか、「鷺を烏」という言い回しを連想する人もいるでしょう。
隠喩や寓意を読む人がいても驚きません。人それぞれです。
「黒いカラスは白いサギだ。」という文にして、この文をいじってみましょう。「白いサギは黒いカラスだ。」「黒いカラスは白黒のパンダだ。」「白いサギは白いハトだ。」「黒いカラスは白いサギではない。」「きょうから、黒いサギを白いサギとする。」
こんなふうに、言葉は簡単にいじることができます。言葉を使えば何とでも言えるからです。一方で、目の前に黒いカラスがいたとして、それを白いサギに変えることはきわめて難しいどころか、不可能だと考えられます。現実は簡単にはいじれないのです。
言葉は簡単に思いどおりになるが(思いの中でいじれるという意味です)、現実はそう簡単には思いどおりにならない。そんなふうに言えそうです。
最高権力者の言葉
「黒いカラスは白いサギだ。」と、誰が言ったとします。笑われるのが落ちかもしれません。でも、これを口にしたのが、国の最高権力者だったら、どうでしょう。最高権力者はどんな権限も持っているはずです。この権限には、法律にのっとって人を殺める権限も含まれます。あっさり書きましたが、恐ろしい状況ですね。
とはいうものの、そんな恐ろしい状況は世界のあちこちに見られませんか。権力とか権限とか権利というものは、しばしばこうした恐ろしい形で立ちあらわれ、しかもそれが継続している――みなさんがご承知のとおりです。誰もが、合法的に自分や家族を拘束されたり、拷問を受けたり、殺められたくはありません。
人類の歴史は、まさにそうした状況の連続であり積み重ねだと言えそうです。
いったん外に出した言葉を撤回するのは難しいというか恥ずかしい
言葉をいじるのは簡単です。ところが、いったん出た言葉をいじるのはとても難しいのです。
これは、言葉が人の外にあって、ときどき人の中に入ったり出たりするにもかかわらず、人の思いどおりにならないという意味で、人にとって「外(外部)」だからにほかなりません。ややこしい言い方をして、ごめんなさい。少しずつ説明していきます。
言葉をいじるのが簡単だというのは、外にある言葉が、人の中に入ったときに起こります。脳でも思いでも思考でも何でもかまいませんが、人の中に入っている言葉を人はいじることができます。何とでも言えるという意味です。
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たとえば、「黒いカラスは白いサギだ」と言えます。その言葉が人の外に出ると、たちまちその言葉は人から離れます。「離れる」というのは「固まる」とか「残る」とも言えるでしょう。いったん口にした、あるいは文字にした言葉は簡単に言いなおせない、撤回できないという事態におちいるのです。
私なんかしょっちゅう言いなおしたり撤回したりしていますが、そうした行為をすると恥ずかしいとか、信頼を失うとか、頭が悪いと思われるのが嫌だとか、面子にかかわるとか考える人が意外と多いようです。
そういう恥ずかしがり屋さんとかプライドが高い人(几帳面で生真面目なのかもしれません)にとって、言いなおしたり、書きなおしたり、撤回するのはかなり難しいようです。
投稿=複製=拡散=流通=保存が、ほぼ同時に一瞬のうちに起きる時代
これが最高権力者だったら、どうでしょう。そこまでいかなくても、そこそこ権力や権限がある人の場合には、いったん口にしたり書いたりした言葉や文章や文書を直したり、撤回するのは、やはり難しいように想像します。
いったん外に出た言葉は、固まるし残るからですが、いまはインターネットでの発信や言葉の流通が広くおこなわれています。
投稿=複製=拡散=流通(引用・翻訳)=保存が、ほぼ同時に一瞬のうちに起きるという事態に敏感でありたいと思います。
言葉の上での辻褄合わせを現実よりも優先させる
大切なことなので、繰りかえしますが、言葉をいじるのは簡単です。言葉を使えば何とでも言えるからです。事実、虚偽、推測、妄想、幻覚に関係なくです。
たとえば「黒いカラスは白いサギだ」と言えます。最高権力者がそうだと決めることもできます。最高権力者の言うままに議会で議決されることもあります。それに嫌々ながら従わなければならない国民がいます。自分から進んで従う国民もいます。
人を拘束したり殺めたり隔離する権限をもった人間に反抗することは、即犯行になるからです。
面子を捨てる勇気を持つ
一方で、いったん外に出た言葉は外にあるからこそ、なかなか自分の思いどおりになってくれません。誰の思いどおりにもなりません。ままならないのです。最高権力者も、外にある言葉には手を焼きます。
【※最高権力者の場合には、「黒いカラスは白いサギだ」の代わりに、隣国にレッテルを貼る(たとえば「〇〇は□□だ」)とか、隣国との関係(国内の少数民族や少数集団でもいいです)について標語を掲げる(たとえば「△△政策」)と考えると分かりやすいと思います。いずれにせよ、言葉であることがポイントです。】
いったん出た言葉のままならさに対する唯一の方策は、面子を捨てる勇気を持つことだという気がします。
捨てるのに勇気が必要なほど、人にとって面子は大切なのです。それほど大切な面子って何なのでしょう? 言葉の上での辻褄合わせを現実よりも優先させる。これが面子をたもつことです。
面子をたもつというのは、現実に沿うのではなく筋を通そうとして、言葉のままならさに屈している状態です。敵や誰かや相手に屈しているのではありません。
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「黒いカラスは白いサギだ」が固定されるのです。すると、そのフレーズに合うような言葉をつぎつぎに出さなければならなくなります(整合性をもたせるという意味です)。誰がって、そのフレーズを最初に外に発した人です。以後は辻褄合わせ地獄におちいります。
辻褄合わせは言葉だけ(口先だけ)のレベルにとどまらず、行動で示さなければなりません(実行する、つまり既成事実を積みあげる)。しかも、ぶれてはならないのです。
(※この場合の「既成事実を積みあげる」とは、具体的には、黒いカラスあるいは白いサギを抹殺していく、「間違った」記述のある事典や辞書や教科書や学術書を改ざんする、異議を唱える学者やジャーナリストを処分する(消すことです)という措置が、過去に取られ、現在もおこなわれています。)
その言葉を発した人が最高権力者である場合には、辻褄合わせをするために、その側近や部下だけでなく、国民が総動員される事態になります。リーダーはそうやってリーダーシップを発揮するわけです。
リーダーシップが発揮される場が、国家的イベント(さまざまなケースが考えられます)ですが、もっとも恐ろしく不幸な「大イベント」は戦争にほかなりません。
言葉を崇め、その前にひれ伏す
言葉の上での辻褄合わせを現実よりも優先させる――。これが露わになるのは、戦争や大災害が起きているときです。目の前の現実よりも、あるいは人びとの生活や命よりも、言葉の上での辻褄合わせが優先される。あっさり言いましたが、恐ろしい事態です。
言葉を崇め、言葉にひれ伏しているのです。
誰がそうするのかというと、人びとの上に立っているリーダー(たち)です。たった一人の場合もありますね。たった一人の辻褄合わせのために、地域だけでなく、世界が付き合わされ、地球が危機に瀕するという状況にいたります。
辻褄合わせの「辻褄」、筋を合わせるの「筋」、こうしたものは人が発し、いったん放たれると、人から離れた外にあります。外にあるからままならない、つまり思いどおりにならないのです。
ままならない言葉を前にしてリーダー(たち)も途方に暮れているにちがいありません。現実よりも言葉にとらわれて右往左往しているのですが、その素振りは見せません。面子があるからです。
言ってしまった以上、広まってしまった以上、回収して取り戻すわけにはいかない
あの人(たち)は現実を見ていません。辻褄と筋を見ています。辻褄も筋も言葉として立ちあらわれます。言葉として複製=拡散=保管されます。情報やプロパガンダは言葉として世界中で流通します。
いまや情報の真偽の境が不明になっていることは、みなさんがご存じのとおりです。なぜでしょう? 言葉をいじるのが簡単だからです。
ところが、人がいじって発信する言葉は、つぎつぎと人の外に出ていく過程で、ますます人の手を離れたものになっていきます。
言ってしまった以上、文字になってしまった以上、広まってしまった以上、回収して取り戻すわけにはいかないのです。これが辻褄であり、面子なのであり、要するに「固まった言葉」なのであり、しかも思いどおりにならない、つまり訂正も撤回もできない言葉なのです。
その結果として、自分(たち)が招いた非常事態下に、リーダー(たち)が、さらなる辻褄合わせ、つまり面子をたもつことに血道を上げ、現実への対応がないがしろにされるのは、みなさんがご承知のとおりです。
いま、げんにそれが起きています。
そうだとすれば、リーダー(たち)が敵だと名指しているものは敵ではないことになります。そもそもこうした状況では武器をもって戦わなければならない敵などいないのではないでしょうか。
言葉が敵だと言っているのではありません。言葉をもってしまった存在が向かわざるをえない、言葉に特有の仕組みや仕掛けこそが敵だという気がします。
その仕組みまたは仕掛けとは、言葉が人の中において簡単にいじれることと、いったん人の外に出た言葉が固まって残りしかも広がることだと思います。
いわば言葉の一人勝ちなのかもしれない
この仕組みは、人の外にあるものであり、言葉を用いる誰もが免れないニュートラルな存在だと考えられます。誰もが言葉とかかわる日々の現場で経験しているという意味です。
失言、言い間違い、「言葉が足りなかった」(過去形であることに注目してください)、「言葉が多すぎた」、「言葉遣いが不適切だった」、言葉の一人歩き、誤解、曲解、嘘、契約不履行、言った言わない、売り言葉に買い言葉、口喧嘩、議論、裁判、牽強付会、罵り合い、コミュニケーションの不全などなど。
相手が悪いというよりも、人が言葉とその言葉のありように対し徹底して無力なのです。人は言葉とその仕組みにひれ伏すしかないと言えるでしょう。
いわば言葉の一人勝ちのような状況なのかもしれません。
こう言うと身も蓋もない話になりますが、人は面子を捨てる勇気を持ち、当事者同士が歩み寄り、辻褄合わせの連鎖を断ち切ることで、言葉の仕組みに対抗できる気がします。きわめて難しいことではありますが。
いずれにせよ、上で述べたリーダー(たち)の敵を巡っての勘違いに世界が付き合わされていると考えると、悲しいどころか激しい憤りを覚えます。やるせなさも感じますが、いちばん怖いのは、無力感だと思います。
きわめて重大で複雑な話をきわめて短絡的に扱い、申し訳ありませんでした。この記事では、言葉とそのありようだけに的を絞っていますが、各言葉が発せられるまでの過程には、そしてその背景には、それぞれに錯綜した個別の要因があるのは言うまでもありません。
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