夜の思考、昼の思考 2022年12月7日

夜の思考、昼の思考

星野廉

2022年12月7日 08:05


 どういうことかと申しますと、辞書によれば、

*かつて、「しる・知る・領る」とは、何かを目にしたときに、「これは全部、わたしのものだ。わたしにまかせとき」と主張する、という意味だった。

ようなのです。

(拙文「かく・かける(3)-(4)」より)


 知る領る地知る

 知る知る知知る

 知る領る血知る

 知る知る血知る

 知る痴る血汁


 恐ろしい、お呪いですね。悪マジ無い、という「感じ=感字」です。ちょっと、ここで、上記の「当て字=感字」の説明をさせてください。

 地(ち)に「しる=汁=おしっこ」をかけて、その場所を「知る」

=「領(し)る(※広辞苑に載っています、「自分の領地にすること」です)

=「痴(し)る(※これも広辞苑に載っています、「痴(し)れる」とも言い、「頭がおかしくなること、変になること」です)」という具合に、

自分の「なわばり=縄張り=テリトリー」を作ろうとか拡大しようとするマーキング行動は、

ワンちゃんやネコちゃんや他の生き物たちの行動だけでなく、ヒトにもあると言うよりも、

むしろヒトが最もエスカレートした大規模なマーキング行動を行っている、

と言えそうです。

 要するに、どうやらヒトは、知り=領り=痴りすぎたようです。

(拙作「テラ取り物語」より・電子書籍ですが無料で読めます。)


        *


 世界地図や衛星写真や地球儀で、ここは、このあたりかなとポールペンの先でこつこつと突いてみる。ここは日本国にある〇県〇市〇町〇番地。ここは地球。ここは太陽系。ここは銀河。ここは宇宙。


 〇県、日本国、地球、太陽系、銀河、宇宙――広くて大きな「そういうもの」は、言葉でしか知らない「何か」であるはずなのに、その存在が事実だと言われている。その「何か」をどんどん「広く」「大きく」していくと、それにつれて抽象度が高くなる気がします。


 話が広く大きくなるほど、体感では容易に確認できないものになり、どんどん遠ざかっていくのです。知識や情報は体感できないという意味で抽象なのです。


        *


 「しる」を「知る」だけでなく「領る」と書く、つまり領土の領という字を当てることもあるらしいのですが、興味深いことだと思います。知恵や知識の知と、領土や領地の領がどう重なるのでしょうか。


 さらに「痴しる・痴しれる」もあるのですが、ぜひ辞書の語義をご覧になってください。私はよく眺めています。


 痴ると痴れるといえば、谷崎潤一郎が自分の作品に『痴人の愛』というタイトルで痴という文字をつかったことを思いだします。さらには、同じく谷崎作『刺青』の冒頭にある「愚おろか」も連想しないではいられません。


それはまだ人々が「愚おろか」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋きしみ合わない時分であった。殿様や若旦那わかだんなの長閑のどかな顔が曇らぬように、御殿女中や華魁おいらんの笑いの種が尽きぬようにと、饒舌じょうぜつを売るお茶坊主だの幇間ほうかんだのと云う職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。女定九郎おんなさだくろう、女自雷也じらいや、女鳴神なるかみ、―――当時の芝居でも草双紙くさぞうしでも、すべて美しい者は強者であり、醜い者は弱者であった。

谷崎潤一郎作『刺青』(新潮文庫『刺青・秘密』所収)


 支配する、支配される――この構図における「支配される」がいかに「痴」であり「愚」であるかを書きつづけたのが谷崎潤一郎だったと私は理解しています。それは play (演じる、遊ぶ、賭ける、競う、奏でる)としての痴であり愚なのです。


 私の中では、痴と愚とは「夜の思考」なのですが、そのことについて以下に書いてみます。ただし、谷崎の痴と愚と必ずしも重なるわけではありません。私が勝手に連想しているだけです。


        *


 恥ずかしい話なのですが、いまだに天動説を信じています。


 子どもの頃には太陽や月や星が動いていると信じて疑いませんでした。まして地球が丸いなんて思いも考えもしませんでした。


 いまはどうかといえば、揺れています。その時の気分で地動説と天動説のあいだを行ったり来たりしているのです。地球が丸くて太陽の周りをまわっているという話は学校で習って知っていますが、どうしても地動説が体感できません。そんなわけで、二つの説のあいだでいまも揺れています。


 そもそも「太陽」はぴんときません。お日さまです。「地球」は地が丸いという意味ですけど、これもしっくりしません。せいぜい地面ですが、これだと平ぺったい感じがしませんか。


        *


 お日さまが、東から上り、西に沈む。夜のうちに、地面の反対側をまわるような形で、地球の周りをまわっている。そう感じられます。これが体感というものなのでしょう。


 いや、本当は地球のほうが太陽の周りをまわっているのだ。そう学校で習ったのだから、そうなのだ。うんうん。これが昼の思考です。恥とか外聞とか世間体に縛られているのが、昼間の自分です。


 夜になると、まして夜中に目が覚めたときには、恥も外聞も世間体も気にしない境地にいるので、堂々と天動説を信奉しています。これが夜の思考です。


 昼の思考では「知る」と「領しる」、つまりぎらぎらした支配欲が活発になり、夜の思考では「痴しる・痴しれる」、つまりぼーっとした放心がもどってくるとも言えるでしょう。もちろん、これは私が勝手に考えていることです。


 人は子ども時代に天動説を信奉し、やがて地動説に改宗するが、その後も密かに天動説の信者でありつづけるとも言えそうです(いまは体感の話をしています、この記事は天動説を推奨するものではありません、念のため)。


 さらに言うと、人は夜には子どもになります。徹底的にすべてを「まかす」状態である体感が満ちてくる――これが「痴れる」、すなわち「支配される」にもどることです――からでしょう。赤ちゃんにもなります。


 赤ちゃんを卒業した人などいないのです。誰もが自分の中で赤ちゃんの状態を大切に持ちつづけています。それが痴・稚・恥であり愚・具であっても、ぜんぜん恥ずべきことではないのです。


 ところで、さきほど「支配される」と書きましたが、子どもや赤ちゃんがおとなに支配されるという意味では必ずしもありません。


 子どもに限らず誰もが「支配されている」わけですが、何に支配されているかは不明なようです。こうなったら、空をあおぐしかない気もします。


 人は愚かで知りもしない。どんなに知(領)ったつもりでも、高が知れている。やっぱり痴れているのかも知れませんね。もちろん、この私めを最前列のど真ん中に据えての話です。



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